学生選手から実業団そしてプロとして活躍
ーーはじめに、今に至るまでの経緯をお聞かせいただけますか 「先祖代々この村に暮らし、実家はどこを取っても松澤姓しかないような集落で、僕は生まれ育ちました。僕らの頃は、冬のスキーか夏に野球をやるかくらいしか選択肢がなく、当たり前のように小学校、中学校、高校とスキー選手。このあたりの子どもたちとまったく同じで、これは白馬に限らず、雪国生まれの選手はみなそうだったんですよね」 ーー大学卒業後もスキー選手を続けられたのは? 「僕が大学を卒業したのは'80年代後半のバブル最盛期で、就職も完全に売り手市場でした。スキー部で主将をやっていたこともあり、けっこう引く手あまたで、銀行の内定も決まっていました。同時になにかのきっかけで、当時のニシザワスキーから声をかけていただいていたんです。社員として働きながら、冬は基礎スキー選手として活動しないか、と。その頃、地元や大学の先輩にもそうやって活躍していた人がいましたから、自分もそこそこやって行けるのかな、と思ったのが始まりです」 ーーやはりスキーから離れたくない気持ちがあった? 「そうですね。選手としては高校、大学を通じて2番、3番の成績はあるけど、優勝したことがない。煮え切らないというか、燃え尽きられなかったタイプ。だから続けられたのかもしれないですし、もちろん、好きだったからというのも大きいですね」 ーーそれから、デモに認定されて順風満帆な選手生活が始まる 「ニシザワスキーに入社してからは、夏は販促活動の仕事で、冬は選手活動。4年後にはデモンストレーターに認定されてと、とんとん拍子でした。それから12年間、自分でもよくやっていたな、と思いますね」 ーーテレマークスキーを始めたきっかけは? 「1995年に野沢温泉で開かれたインタースキーで、ノルウェーチームのデモンストレーションを見たのがきっかけです。登山好きだったウチの兄がやっていたので知ってはいましたが、それがノルウェーチームのテレマークはまったく別モノで、途中ジャンプを交えたりして、とにかく凄いと思ったんです。おぉ、これだ!こんなにカッコ悪くて、カッコいいのはない! って(笑) ーーなるほど。 「それからは基礎スキーと並行してテレマークスキーを始めて、大会にも出るようになりました。基礎スキーは採点競技ですが、テレマークスキーレースはタイムで争う。まあ、脚の開き方などでペナルティはあるんですが、人から点数付けられるのではなく、純粋な競技ですよね。そんなこともあってテレマークスキーが次第に楽しくなっていき、そうなると基礎スキーの点数も落ちますよね、一所懸命やってないから。で、そのまま引退したという形です」
どうやって山と出合いガイドを目指したのか
ーーそんな松澤さんが、山と関わるようになったきっかけは? 「夏山の常駐隊の仕事を始めるようになったのが始まりです。白馬に帰ってきてデモになった頃ですから、27歳くらいの時ですね ーー常駐隊とは? 「遭対協、つまり遭難対策協議会の仕事の一環なんですが、夏山シーズンの7月中旬から8月末まで山小屋に常駐して、登山者への声かけなどを行なったり、登山道の状況を確認して歩いたりする遭難防止の活動です。また警察とつながる無線を持っていて、事故があったときの橋渡し役も務めます」 ーーどうやって常駐隊に参加したのですか? 「これも白馬ではよくあるパターンで、体力があって、時間に余裕のある若者に声が掛かるんです。あいつ、動けそうだし、担げそうだよな、って。普通は常駐隊の隊長あたりから話が来るんですが、僕の場合は派出所から電話が掛かってきたんですよ。えっ? なにか悪いことでもしたのかなと思いましたよ(笑)。そしたら、夏山の隊員をやりませんかと。それってなんですか? という感じで、そこからですね」 ーー松澤さんはどこの山小屋に入ったんですか? 「最初はキレット小屋です、五竜岳と鹿島槍ヶ岳の間の。そこに2シーズンくらいいて、それから白馬班になって村営頂上宿舎に6、7年ですかね。後立山の常駐隊員の基地は、白馬岳の次が唐松山荘。白馬鑓温泉には白馬からも唐松からも隊員が行きます。で、唐松より南がキレット小屋、冷池山荘、烏帽子小屋で、それ以南は南部班の担当になります」 ーー登山経験がなくても問題ありませんでしたか? 「まあ、若さでしょうね。どこどこを確認してこいと指示されると、それこそトレランのように山道を走っていきました。周囲の隊員は登山靴でしたけど、僕は運動靴しか持っていなかったし、そのナリで登山者に指導したりしてましたから、今なら怒られるでしょうね。そのぶん、速く動いていたので、まあいいか、って感じだったんじゃないですか(笑)。おかげで、けっこう山を覚えました。あちこちの山小屋に泊まらせてもらったり、長野県の範囲を超えて朝日岳や祖母谷(ばばだに)あたりまで足を運ぶこともありましたね」ガイドだけではない山案内人の仕事とは
ーー白馬山案内人には、登山ガイドのほかに、さまざまな仕事があると思います。 「そうですね。事故があれば救助にでますし、やっかいなのは登山道の補修作業です。自然の中の道ですから、嵐が来れば道は壊れるし、人が歩けば歩くほど道は荒れる。なので、倒木があれば除去し、壊れた階段を直し、危険個所にはロープを張る」 ーー八ヶ岳や南アルプスでは山小屋がそれぞれの持ち場を分担するようですが、白馬は案内人組合のガイドの仕事なんですね。 「そうです。ガイド集団でありますが、道を直したり造ったりもしています。いわゆる土木作業ですから、労災にも入っていますし、日当も出ます。そうでないと続けられませんからね」 ーー具体的にはどんな作業になるのですか? 「まずは雪が解けたら登山道の点検に入り、危険箇所や修復が必要な箇所を、自治体の予算を使って修復していきます。場合によっては、登山道の付け替えや、新たなルートの提案も行なっています。それは白馬の山域を熟知し、そして山道を使い慣れた地元ガイドだからこその仕事でもあります」 ーー山道の情報をメールで共有していると聞きました。 「案内人メールというシステムがあって、それぞれガイド仕事で山に入った状況を、ガイド同士がメールで情報交換しています。道の修復で入れば、当然、その情報も共有できます。最近では、村でもその情報を役立てていますし、会った人にはできるだけ口頭でも伝えますね。ガイドが情報をしっかり把握していれば、より安全にお客さんを案内できるわけですし」 ーー1シーズンでどのくらいの日数を費やしていますか? 「毎年、開山祭前の5月10日頃から始めて、6月はその最盛期。登山者が増える7月の海の日までには、主要な部分を修復しておかなければなりませんから、かなりの日数になります。たとえば、大雪渓だけでも、のべ14日間くらい要します。雪渓の上にベンガラという顔料を蒔いてルートを表示するんですが、クレバスが空いてくれば、そこを封鎖して、ロープを張って別のラインに誘導したりとか。お盆時期を過ぎると雪渓がどんどん変化してきますから、そうした作業も増えていきます」脈々と受け継がれてきた歴史と共に歩む意義
ーーガイド仕事と両立させるのは難しくありませんか? 「たしかにその通りです。事故が起きた時のために時間を空けているわけではありませんし、案内人のすべてが救助活動で動けるスキルを持っているわけでもありません。なので、組合で研修会を開いたり、県の訓練に順番で参加させたりして、声を掛けられるガイドの人数を増やすことが重要になっています。ただ、その意義を理解できれば、白馬山案内人組合っていいなと思えるはずです。単にガイドしているよりはやり甲斐があると思いますし、自分が学んだ成果は、間違いなく、お客さんのために反映させられますので」♦
- Text:Chikara Terakura
- Photo:Hiroya Nakata
- ※(株)双葉社発刊、雑誌「soto」より転載