白馬山案内人組合を訪ねて~ ガイドを通じて、山を知る ~

それが白馬の伝統
やり甲斐はありますね

松澤 幸靖
Yukiyasu Matsuzawa

白馬で生まれ育った松澤幸靖さんは、長くスキー選手としてその名を全国に知られてきた。幼い頃からアルペンスキー競技に取り組み、地元白馬高校から中央大学へと進み、卒業後は長野にあった国産スキーメーカーに所属しながら基礎スキー選手として活躍。38歳で引退するまではナショナルデモンストレーターを12年間務めてきた。また、後半はデモの活動と並行してテレマークスキーにも取り組み、日本代表として世界選手権にも何度か出場している。
現在、夏は白馬を中心とした山岳ガイドを続けながら、白馬山案内人組合のさまざまな業務に就き、冬は佐久市でスキースクール校長を務めつつ、白馬でのスキーガイドも続けている。
白馬はこれまでオリンピアンを含めた多くのスキー選手を輩出してきたが、そこから山のガイドに転身する例は限りなく少ない。引退後はスキー関連の仕事に就くか、あるいは実家の宿泊業を継ぐ場合が多く、また、幼い頃から年間を通してスキーに集中してきたため、登山との接点も希薄だ。
そうした状況にあって、学生から実業団、そしてプロへと、スキー選手の王道を歩んできた松澤さんは、なぜガイドの道に足を踏み入れたのだろうか。

学生選手から実業団そしてプロとして活躍

上)白馬は高山植物の宝庫。山の花を美しいと思ったのはガイドとして山に入るようになってからという。下)白馬山案内人の組合証。

ーーはじめに、今に至るまでの経緯をお聞かせいただけますか 「先祖代々この村に暮らし、実家はどこを取っても松澤姓しかないような集落で、僕は生まれ育ちました。僕らの頃は、冬のスキーか夏に野球をやるかくらいしか選択肢がなく、当たり前のように小学校、中学校、高校とスキー選手。このあたりの子どもたちとまったく同じで、これは白馬に限らず、雪国生まれの選手はみなそうだったんですよね」 ーー大学卒業後もスキー選手を続けられたのは? 「僕が大学を卒業したのは'80年代後半のバブル最盛期で、就職も完全に売り手市場でした。スキー部で主将をやっていたこともあり、けっこう引く手あまたで、銀行の内定も決まっていました。同時になにかのきっかけで、当時のニシザワスキーから声をかけていただいていたんです。社員として働きながら、冬は基礎スキー選手として活動しないか、と。その頃、地元や大学の先輩にもそうやって活躍していた人がいましたから、自分もそこそこやって行けるのかな、と思ったのが始まりです」 ーーやはりスキーから離れたくない気持ちがあった? 「そうですね。選手としては高校、大学を通じて2番、3番の成績はあるけど、優勝したことがない。煮え切らないというか、燃え尽きられなかったタイプ。だから続けられたのかもしれないですし、もちろん、好きだったからというのも大きいですね」 ーーそれから、デモに認定されて順風満帆な選手生活が始まる 「ニシザワスキーに入社してからは、夏は販促活動の仕事で、冬は選手活動。4年後にはデモンストレーターに認定されてと、とんとん拍子でした。それから12年間、自分でもよくやっていたな、と思いますね」 ーーテレマークスキーを始めたきっかけは? 「1995年に野沢温泉で開かれたインタースキーで、ノルウェーチームのデモンストレーションを見たのがきっかけです。登山好きだったウチの兄がやっていたので知ってはいましたが、それがノルウェーチームのテレマークはまったく別モノで、途中ジャンプを交えたりして、とにかく凄いと思ったんです。おぉ、これだ!こんなにカッコ悪くて、カッコいいのはない! って(笑) ーーなるほど。 「それからは基礎スキーと並行してテレマークスキーを始めて、大会にも出るようになりました。基礎スキーは採点競技ですが、テレマークスキーレースはタイムで争う。まあ、脚の開き方などでペナルティはあるんですが、人から点数付けられるのではなく、純粋な競技ですよね。そんなこともあってテレマークスキーが次第に楽しくなっていき、そうなると基礎スキーの点数も落ちますよね、一所懸命やってないから。で、そのまま引退したという形です」

雪渓をカットして歩きやすい道を造る、山で会った長野県警救助隊員とも情報交換を重ねる。それらもすべて山案内人の仕事

どうやって山と出合いガイドを目指したのか

ーーそんな松澤さんが、山と関わるようになったきっかけは? 「夏山の常駐隊の仕事を始めるようになったのが始まりです。白馬に帰ってきてデモになった頃ですから、27歳くらいの時ですね ーー常駐隊とは? 「遭対協、つまり遭難対策協議会の仕事の一環なんですが、夏山シーズンの7月中旬から8月末まで山小屋に常駐して、登山者への声かけなどを行なったり、登山道の状況を確認して歩いたりする遭難防止の活動です。また警察とつながる無線を持っていて、事故があったときの橋渡し役も務めます」 ーーどうやって常駐隊に参加したのですか? 「これも白馬ではよくあるパターンで、体力があって、時間に余裕のある若者に声が掛かるんです。あいつ、動けそうだし、担げそうだよな、って。普通は常駐隊の隊長あたりから話が来るんですが、僕の場合は派出所から電話が掛かってきたんですよ。えっ? なにか悪いことでもしたのかなと思いましたよ(笑)。そしたら、夏山の隊員をやりませんかと。それってなんですか? という感じで、そこからですね」 ーー松澤さんはどこの山小屋に入ったんですか? 「最初はキレット小屋です、五竜岳と鹿島槍ヶ岳の間の。そこに2シーズンくらいいて、それから白馬班になって村営頂上宿舎に6、7年ですかね。後立山の常駐隊員の基地は、白馬岳の次が唐松山荘。白馬鑓温泉には白馬からも唐松からも隊員が行きます。で、唐松より南がキレット小屋、冷池山荘、烏帽子小屋で、それ以南は南部班の担当になります」 ーー登山経験がなくても問題ありませんでしたか? 「まあ、若さでしょうね。どこどこを確認してこいと指示されると、それこそトレランのように山道を走っていきました。周囲の隊員は登山靴でしたけど、僕は運動靴しか持っていなかったし、そのナリで登山者に指導したりしてましたから、今なら怒られるでしょうね。そのぶん、速く動いていたので、まあいいか、って感じだったんじゃないですか(笑)。おかげで、けっこう山を覚えました。あちこちの山小屋に泊まらせてもらったり、長野県の範囲を超えて朝日岳や祖母谷(ばばだに)あたりまで足を運ぶこともありましたね」

住まいは後立山連峰の眺望に恵まれた位置にあり、庭では自家栽培の各種野菜を植えている。手にしているのは自ら育てている山葡萄

ーーガイドになったのは? 「常駐隊にいるころに資格を取り、白馬山案内人組合に入りました。27歳の頃です。当時はまだ冬はスキー選手活動を続けている頃でしたし、山が好きでガイドになりたいというよりは、正直いえば、最初は仕事のため、という側面が強かったです。今でこそ、長く続けてきてから山の魅力も十分に理解していますけど、最初の頃は景色や花には興味なかったくらいですしね(笑)」 ーーというと? 「自分で山を登る時は、景色や花をゆっくり楽しんで、というよりは、気持ち、呼吸がぜいぜいするくらいの速度で駆け上がるほうが好きでした。だから、花には目が向かなかった(笑)」 ーーやはり、根っからのアスリート気質なんですね(笑)。 「いやぁ、そんなんでもないんですが、体をそこそこ使って、ちょっとリスクがあってドキドキしたり、危険な部分をうまく乗り越えた時のほうが楽しいかなと。そんな楽しみも山にはあるはずですし、僕だけではないと思いますよ ーーたしかに。 もちろん、ガイドとして山に入る時は、自分の楽しみとは切り離して、お客さんのペースで歩きます。そうやってお客さんとゆっくり山に登っているうちに、ああ、花っていいんだな、素晴らしい景色だなと思えるようになってきた。順序が逆ですね(笑)」

雪の季節はスキー学校校長であり、白馬バックカントリーに精通したスキーガイド。そしてここ数年は、雪山を駆け上がって滑る山岳スキーレースにも積極的に取り組んでいる

ガイドだけではない山案内人の仕事とは

ーー白馬山案内人には、登山ガイドのほかに、さまざまな仕事があると思います。 「そうですね。事故があれば救助にでますし、やっかいなのは登山道の補修作業です。自然の中の道ですから、嵐が来れば道は壊れるし、人が歩けば歩くほど道は荒れる。なので、倒木があれば除去し、壊れた階段を直し、危険個所にはロープを張る」 ーー八ヶ岳や南アルプスでは山小屋がそれぞれの持ち場を分担するようですが、白馬は案内人組合のガイドの仕事なんですね。 「そうです。ガイド集団でありますが、道を直したり造ったりもしています。いわゆる土木作業ですから、労災にも入っていますし、日当も出ます。そうでないと続けられませんからね」 ーー具体的にはどんな作業になるのですか? 「まずは雪が解けたら登山道の点検に入り、危険箇所や修復が必要な箇所を、自治体の予算を使って修復していきます。場合によっては、登山道の付け替えや、新たなルートの提案も行なっています。それは白馬の山域を熟知し、そして山道を使い慣れた地元ガイドだからこその仕事でもあります」 ーー山道の情報をメールで共有していると聞きました。 「案内人メールというシステムがあって、それぞれガイド仕事で山に入った状況を、ガイド同士がメールで情報交換しています。道の修復で入れば、当然、その情報も共有できます。最近では、村でもその情報を役立てていますし、会った人にはできるだけ口頭でも伝えますね。ガイドが情報をしっかり把握していれば、より安全にお客さんを案内できるわけですし」 ーー1シーズンでどのくらいの日数を費やしていますか? 「毎年、開山祭前の5月10日頃から始めて、6月はその最盛期。登山者が増える7月の海の日までには、主要な部分を修復しておかなければなりませんから、かなりの日数になります。たとえば、大雪渓だけでも、のべ14日間くらい要します。雪渓の上にベンガラという顔料を蒔いてルートを表示するんですが、クレバスが空いてくれば、そこを封鎖して、ロープを張って別のラインに誘導したりとか。お盆時期を過ぎると雪渓がどんどん変化してきますから、そうした作業も増えていきます」

登山道の補修作業のために、ひとり山に入る松澤さん。50代とは思えない軽快な歩み

ーー救助の仕事は? 「白馬山案内人のすべてではありませんが、組合に所属するガイドには、長野県警からの委託によって北アルプス北部地区山岳遭難救助隊の隊員を兼務しています。白馬の場合、冬から春にかけて雪の時期の事故が多いですから、スキーを使って動ける人が多いことは強みですね」

脈々と受け継がれてきた歴史と共に歩む意義

ーーガイド仕事と両立させるのは難しくありませんか? 「たしかにその通りです。事故が起きた時のために時間を空けているわけではありませんし、案内人のすべてが救助活動で動けるスキルを持っているわけでもありません。なので、組合で研修会を開いたり、県の訓練に順番で参加させたりして、声を掛けられるガイドの人数を増やすことが重要になっています。ただ、その意義を理解できれば、白馬山案内人組合っていいなと思えるはずです。単にガイドしているよりはやり甲斐があると思いますし、自分が学んだ成果は、間違いなく、お客さんのために反映させられますので」

左)登山道の補修には、昔ながらの剣スコップを愛用。多少重いが掘削力に長け、邪魔な木の根も断ち切ることもできるから。右)休憩中の登山者に、何気なく話しかけた。これも山案内人としての習慣だ

ーー他の山域ではあまり見られないシステムだと思います。 「それは白馬の伝統ですよね。民宿発祥の地といわれるように、たまたま山の素晴らしさに惹かれて来た人を家に泊めるようになり、その中で山に詳しい人が必然的に山を案内し始めたわけで、それで稼ごうなんて村の人は思っていなかった。で、案内人として自分たちが山に入るようになって、あそこは危ねぇぞ、とか今は雪の状態がどうだと情報交換するようになり、なにかあったらお互い助け合おうぜ、というところから遭対協の役割ができた。それが白馬山案内人組合のルーツであり、脈々と受け継がれてきた歴史。今やっていることとほとんど変わらないわけです。その歴史を感じながら、それとどう関わっていくかを考えるだけでも、やり甲斐はありますね」

松澤幸靖まつざわゆきやす 1967年、白馬村生まれ。元全日本ナショナルデモンストレーター。現在、MAパラダスキースクール校長、JMGA認定山岳ガイド、白馬山案内人組合副組合長

現在、松澤さんは冬場、佐久市のスキー場でスキー学校の運営に多くの時間を費やしている。首都圏から近く、雪道も走らない環境は、多くのファミリー層を迎えている。自分のスキーすら持っていない都会の親や子どもにスキーを教えることで、それが山の幅広い楽しみを知るきっかけになる。冬を白馬で過ごしたいのはやまやまだが、それは自分が愛する白馬の山々にとっても意義深い仕事だと、松澤さんは認識している。 また、最近では個人の挑戦として春時期には山岳スキーレース(SKIMO)に取り組み、ヨーロッパの大会にも毎年参戦している。その成果を持ち帰り、春の白馬のスキー場を利用した大会を開催することで、SKIMOの普及にも取り組んでいる。これもまた、松澤流の山への誘い。 50代で白馬山案内人組合の副組合長という重席に就きながら、今もなお、現役の山岳ガイドでありアスリート、そして山に精通した遊び人。「ガイドは遊び上手じゃないとだめですよね。僕なんて、毎日遊んでいるようなものです。だって、楽しいじゃないですか」 そう笑う松澤さんは、おそらく、60歳になっても、70歳になっても、今のスタイルを保ち続けるのだろうと思わせてくれた。

松澤幸靖まつざわゆきやす 1967年、白馬村生まれ。元全日本ナショナルデモンストレーター。現在、MAパラダスキースクール校長、JMGA認定山岳ガイド、白馬山案内人組合副組合長

  • Text:Chikara Terakura
  • Photo:Hiroya Nakata
  • ※(株)双葉社発刊、雑誌「soto」より転載

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