白馬山案内人組合を訪ねて~ ガイドを通じて、山を知る ~

白馬の住民として山と共存し、
この山を守っていきたい

横山 秀和
Hidekazu Yokoyama

横山秀和さんは白馬山案内人組合に所属する登山ガイドであり、冬は白馬八方尾根スキースクールに所属して、長くスキーインストラクターを務めてきた。
夏は登山ガイドで冬はスキーインストラクターといえば、山とスキー好きにとっては、誰もが羨む理想的な職業に思える。だが、実際のところ、インストラクターとガイドを兼務する人は少なく、100人以上の指導員が在籍する白馬八方尾根スキースクール内でもスキーガイド資格を持つのは、今のところ横山さんだけだ。
その横山さん自身、ガイド資格を取得したのは30歳を過ぎてからであり、それまではスキー学校に所属しながら基礎スキー選手として全日本スキー技術選手権に出場し、SAJデモンストレーターにも選出されていた。
いわば、スキーヤーの王道を歩んできた横山さんが、登山ガイドに足を踏み入れたのはなぜだったのだろうか。

稜線上から日の入りを楽しみ、満足げに唐松岳頂上山荘に戻る。左は唐松岳と不帰へ続く稜線、中央は白馬三山

まずはスキーガイド資格をと考えた

唐松岳山頂まであとひと息。ゲストの様子を背中で感じながら、歩みを進める横山さん

バックカントリースキーに出合ったことで

ーーガイドを目指そうと思ったのはなぜですか? 「きっかけはバックカントリースキーに出合ったことでした。今から10年ほど前だったと思いますが、あるとき、同じデモンストレーターのスキー仲間に誘われて、栂池の天狗原でのスキー撮影に参加したのが最初です」 ーーそれが初めてのバックカントリースキーですか? 「そうです。そのころの僕は山に興味があったわけでもなく、まだシールも持ってなくて、ビンディングもカカトの上がらないアルペン用。スキーを背負ってスノーシューで登って滑りました。風が強く、ビュービュー吹いてましてね。印象的だったのは、山の上から見たゲレンデの小ささでした。ああ、あんなところでチマチマ滑っていたんだなって(笑)」 ーースキー教師としては思い切った発言ですね(笑)。 「もちろんスキー場で滑ることは楽しいですし、そこで繰り返し練習する大事さはよくわかっています。でも、バックカントリーのスケール感とは比べようもないし、山には大きな斜面がいくらでもある。滑るときの緊張感も違いますし、1本滑るためだけに深く考える。それらがすべて新鮮だったんです。それを何度か経験するうちに、スキー学校のお客さんを標高の高い山の上に連れていってあげたいと思うようになりました。それで、まずはスキーガイドの資格を取ろうと考えたんです」 ーーそこから資格取得ですか? 「なにしろ、その頃は山の知識がなさすぎました。だからしっかりと勉強して資格を得て、山案内人の方たちに近づきたいと思いました。ただ、時間は掛かりました。そのとき30歳前後で、選手として技術選(全日本スキー技術選手権)にも出場していましたし、日本山岳ガイド協会のガイド試験が毎年そのタイミングでかぶっていました。また、信州登山案内人の試験がなかなか難しくて、僕は3回落ちて4回目で合格したんです。そうして白馬山案内人に入ったのが、36歳のときです。少々時間を掛けすぎましたね」 ーー基礎スキー選手をやめて、ガイド1本に絞っていこう、とは思いませんでしたか? 「技術選は若いころから毎年出場してきましたし、スキーヤーとして自分自身を試す絶好の機会でした。また、スキー学校ではそれなりの役割もありましたから」 ーーなるほど。 「おそらく、僕がガイド資格を取ったらスキー学校から離れてガイド会社へ行くと思った人が多かったのではないかと思います。ただ、僕がやりたかったのは、スキー学校にいながらにしてガイドになること。スキーに来るお客さんは夏の山に、夏山に来る人には、冬になったらスキーに来てほしい。この繋がっていないところを結びつけることが僕の役割。だから、僕はこれからも山案内人組合とスキー学校の両方に携わっていきたいと考えています」

スキー選手から海外留学を経て教師へ

稜線近くのやせ尾根を行く。山小屋まではあとわずか。それでもまだ気を抜けない

ーー子どもの頃は、白馬の山はどんな存在だったのですか? 「白馬に生まれ育った人はみんなそうだと思うのですが、毎日見えているので、とくになんとも思っていませんでした。当時、白馬中学でも白馬高校でも夏に学校登山で白馬岳に登るんですが、これを続けたいとは思いませんでした。山登りが格好いいとは少しも思わなかったんですね。中学高校でも山岳部はなく、今は白馬高校には山岳部ができたんですが、地元の子は入っていないんですよ。まあ、その時代に山岳部があったとして、僕は入っていなかったと思いますけどね」 ーー地元全体としてスキーのほうが熱心だった? 「そうですね。特に僕らの世代は’98年の長野オリンピックに向けて、地元として選手育成に力を入れていた時代でしたから」 ーー小学校からアルペンスキーレースひと筋ですか? 「はい。ただ学校ではだいたいいつも4番目。周りには強い選手が大勢いましたね。インターハイには3人までしか行けなかったから僕は出られなかったけど、ジュニアオリンピックや全日本選手権には出場しました。高校卒業後はスキー教師になるためにオーストリアに渡って、18、19歳と2年間勉強させてもらいました」

5回も6回も白馬の山に登りたいと思っている

左)唐松岳山頂から見た唐松岳頂上山荘。小屋に荷物をデポして、山頂までは気持ちのいい稜線歩き。右)長身で痩身、ガイドらしい体型の横山さん

ーーアルペンをやめてスキー教師を目指した? 「そうです。将来サラリーマンになるつもりはなかったし、その頃から職業としてのスキーを視野に入れていたので、大学に行く代わりにスキーの勉強に行かせてもらったんです。本当は国家検定に合格して、向こうでしばらくスキー教師をしたかったのですが、そのころ祖父が体調を崩したこともあって、2年間で帰国しました。15歳のときに父を亡くしていたこともあって、早く独り立ちしなければと考えたんです」 ーー帰国後は? 「冬はスキー学校で、春から秋は家の農業を手伝いながら建設会社に勤めました。実家は民宿と農業の兼業だったんですが、民宿は母が切り盛りしていましたし、その頃は稲作だったので春に田植えをしてから秋の収穫まではあまり手が掛からない。でも僕はまだ22歳で若かったですしね」 ーー体を動かす仕事を選んだ 「ネクタイを締める仕事が合わないのはわかっていましたし、春から秋まで安定した給料をもらえる仕事でしたからね。そのなかで楽しくできたのが山での仕事でした。登山道整備や木道の修復、30㎏のセメントを背負ってケルンを直しに行ったこともあります。毎日山を歩けるのがよかった。道なき道をひたすら登って堰堤を作り、帰りに山菜やキノコを採ったりして……。楽しかったですね」

自分にしかできないガイドを目指して

今日のルートを振り返り、明日の行程を説明するのもガイドの仕事

ーー今はどんな1年ですか? 「冬はスキー学校です。指導部長という現場の責任者ですね。また、長野県スキー連盟のブロック委員を務めているので、県連の仕事もあります。春からは農業の準備が始まります。今はミニトマトを中心にした畑仕事ですね。それと同時にリフトメンテナンスの仕事もあります。で、5月の開山祭から9月の末まではガイドの仕事。その合間に農業も続けます。10、11月は基本的には農業をやりながらリフト整備にも行きます」 ーースキー教師とガイド以外に、農業とリフトの仕事も? 「好きな仕事をチョイスしたらこうなっただけですが、たとえば、夏はミニトマトの収穫期なので、ガイドの仕事を終えて下山してからでもできます。季節に応じて仕事があるから、焦らずにいられると言うか、けっこうバランスよく生活できていると実感します」 ーーそのなかで、山にはどのくらい入りますか? 「ガイドで30日くらい。ほかに下見や登山道整備などで30 日くらいでしょうか。ガイドの中にはプライベートガイドで全国の山に出かける人も多いですが、僕は白馬からあまり離れない範囲でやりたい。百名山をガイドしている方はすごいと思いますよ。でも僕はそのぶん5回も6回も白馬の山に登りたいと思っているんです」

左)朝日に輝く不帰と、白馬三山に続く後立山稜線を眺める。右)唐松岳頂上山荘を一歩出ると、夕暮れに染まりゆく剱岳と立山連峰が目の前に広がった

ーーひと夏で5回も6回も白馬の山に登って飽きませんか? 「飽きることはないと思いますよ。スキー学校では毎日のように八方のスキー場を滑っても飽きませんし、毎日同じ家で暮らしていて、飽きるという感覚はないじゃないですか。それに、山で見る景色はいつも違います。山頂からの眺望も、稜線から見える夕焼けも、同行するお客さんも違う。だから、飽きないんですね」 ーー白馬の山で、好きなコースはどこですか? 「僕は不カ エラズ帰が好きですね。緊張感ある稜線は個人的に楽しいし、不安でいっぱいだったお客さんが無事に歩き通せたときの安心した顔を見ると嬉しくなります」 ーーお客さんの不安や緊張はどうやってほぐすんですか? 「つねに声を掛けていますね。あとは効果的に休憩を入れつつ、緊張感を緩めない程度に話をする。また、高いところから下を見せないように意識したり、目線をその人から外さないことも大切です。高所恐怖症の人には、ときには手を引いてあげたりします。大丈夫ですよと言ったところで、苦手なものは苦手ですからね」 ーーガイドになってよかったと思う瞬間は? 「正直言えば、いつもたいへんです。だから、お客さんの目標を達成して下山したときには達成感がありますね。でも、毎回同じではないので、臨機応変に対応できたときには満足感はあります。責任もありますし、とても難しい仕事だと思っています」

左)唐松岳山頂から見た唐松岳頂上山荘。小屋に荷物をデポして、山頂までは気持ちのいい稜線歩き。右)長身で痩身、ガイドらしい体型の横山さん

ーースキー学校でバックカントリーガイドを始めないんですか? 「たしかにそれができればいいんですが、今のところ未定です。ひとつには僕以外にガイドがいないという点。若いスキー教師たちはどちらかというと技術指向が強く、ガイドを目指そうとは考えない。でも、たとえば、スキー学校の中の企画として、僕がバックカントリーツアーを組むことはできる。しばらくはそうやって模索していくことになると思います」 ーースキーと登山の良い架け橋になれることを期待しています 「ありがとうございます。白馬山案内人組合には多くの優秀なガイドがいますし、それぞれ得意分野を持っています。僕も20代からガイドを始めていればよかったんですけど、今はもう40代ですからね……。でも、ガイドたちを麓で支える役割なども必要ですし、自分なりにできる範囲でベストを尽くしたい。そうやって白馬の住民として山と共存し、この山を守っていきたいと考えています」

左上)夏時期は毎日のようにミニトマトの収穫が続く。左下左)強い日差しを緩和するビニールハウス栽培左下右)こちらはアスパラガス。右)30歳を過ぎてからガイドを志したという横山だが、日本有数の山が地元にあり、多くの人にその魅力を伝えるという仕事に大いなる喜びを感じている

左上)かつての長野五輪ではダウンヒル競技の前走を務めたことも。左下)オーストリアでのスキー教師資格証。右)雪を求めて初夏の山を滑る

横山秀和よこやまひでかず 1978年、白馬村生まれ。現在、冬は白馬八方尾根スキースクールでスキー教師、夏は白馬の山で登山ガイドを続けている。JMGA認定登山ガイドステージⅡ、スキーガイドステージⅠ、白馬山案内人組合所属

横山秀和よこやまひでかず 1978年、白馬村生まれ。現在、冬は白馬八方尾根スキースクールでスキー教師、夏は白馬の山で登山ガイドを続けている。JMGA認定登山ガイドステージⅡ、スキーガイドステージⅠ、白馬山案内人組合所属

  • Text:Chikara Terakura
  • Photo:Hiroya Nakata
  • ※(株)双葉社発刊、雑誌「soto」より転載

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